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昨夜、1時半頃までこの本を読んでいました。
実は4年くらい前にも読んだことがあって、そのときにはこの本の意味というか、たいして深いことを考えることもなく、ふーむと思って読み終えた気がする。
なぜ改めて読んだのかといったら、一年前に読んだ「悪魔とプリン嬢」がきっかけで、パウロ・コエーリョという作家が好きになったから。
人間の行動原理というか、「人間」そのものを扱っている作家のように思えたから。
哲学的だったり、宗教色が強かったりするものもあって少しクセがあるけれど、私は「アルケミスト―夢を旅した少年」も、「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」も好き。
だから、もう一度「ベロニカは死ぬことにした」を読もうと思った。
本っていうのは、読む時期にとって受け取り方とか感じ方とかが全然違うものだ。
再度読み直して、私はこの本の内容をすっかり忘れてしまっていたことに気付いたし、内容がすごくタイムリーで読み始めてから心が痛かった。
自殺未遂をしたベロニカは精神病院で入院することとなる。
そこには鬱病の人もいて、その人の描写や、鬱についての記述を読んでやっぱり悲しくなる。
明けることのない闇。
でも、次第に生きたいと思い始めるベロニカとそれに影響される周りの人々。
イゴール博士が出した結論は、唯一のヴィトリオルの治療法は「生への意識」である。
「死への意識」から「生への意識」へ。
私の傲慢さから生じる感情かもしれないけれど、私の身近にいる人を少しでも楽にしてあげられたらと思うのです。
絶望、ペシミズム、無気力、疲労感、不安、憂鬱。
そういった感情ではなくて、「生きていて楽しい。わくわくする。」といった感情を持ってほしいから、何かできないだろうかと思ってしまうのです。
でも、そう考えるのは私のお節介というか、余計なお世話なのかな。
私は人に「生きていたい。生きて何かしたい」と思わせることができるのだろうか。
そう思うと、私は本当にちっぽけな人間で、どうしていいのか分からなくなる。
「生の意識」というのは、他人がその人に意識させるものではなくて、本人自身が意識しないと意味がないと思う。
それが本当にその病気を抜け出すことができる方法であっても、そう本人が意識することって簡単なものではないような気がする。
ただ、ベロニカが前に進めた、それだけが救いです。


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